昭和四十六年岐阜県登録
特別保存刀剣鑑定書
伊豫掾宗次初代は忠吉初代と同じ江戸初期の肥前刀工で、名を境三右衛門という。『徳川実紀』によれば、将軍家光は寛永十一年七月、諸大名を従えて上洛し、七月十八日参内して九千枚以上の銀を献上、さらに京町衆に銀十二万枚(五千百六十貫)を下賜した。巨万の富を上洛の引き出物とした家光の向こうを張るべく、京町衆の那波宗旦は伊豫掾宗次に作刀を依頼している。今に遺されている「家光将軍洛中賜五千貫目以銀依那波宗旦求伊豫掾源宗次作是」と切銘された寛永十一年七月吉日紀の刀(注①)こそが、渾身の力と想いを籠めて宗次が鍛えた、一世一代の作である。
伊豫掾宗次初代が精鍛したこの脇差は、重ね厚く鎬筋強く張り、反り控えめに中鋒延びごころの、江戸初期特有の精悍な姿。鎬地を板目交じりの柾に、平地を小杢目に流れごころの肌を交えた板目に鍛えた地鉄は、細かな地景が縦横に入って活力に満ち、粒立った地沸が厚く付いて輝く。刃文は互の目に小湾れ、尖りごころの刃を交え、銀砂のような沸が厚く付いて刃縁明るく、刃境に砂流し、湯走り、飛焼が入り、刃中に沸足太く入って物打辺りが奔放に乱れた華麗な構成。帽子は焼深く強く沸付き、湯走り掛かって二重刃ごころとなり、乱れ込んで小丸に返る。茎は穏やかなタナゴ腹風となり、伊豫掾宗次初代の特徴が顕著。地景の目立つ地鉄と沸出来の乱刃は相州上工(注②)、就中、志津兼氏を想起させ、伊豫掾の個性全開の見事な出来となっている。注①…『日本刀大鑑新刀篇二』所載。第十四回特別重要刀剣。
注②…『肥前の刀と鐔』に慶長十三年書写と伝える「伊豫掾宗次古系図」がある。宗次の遠祖は執権北条時宗に仕えた武士・堺真高で、相州五郎入道正宗に学んだ旨が記されている。系図は慶長十三年の創作で、宗次の目標が相州正宗であることを伝えて興味深い。