平成八年長野県登録
宮入小左衛門行平刀匠は本名を惠といい、昭和三十二年の生まれ。父は相州伝を極めた人間国宝の宮入行平で、惠もまたその業を継いだが、総ての技術を受け継ぐ前に急逝。後は同門の先達に学び、また独自の研究を重ね、相州伝においては先代を凌駕する境域にまで到達した。
表題の作は、相州正宗を手本に、より緻密に詰んだ地鉄鍛えを求め、変化に富んだ焼刃、その濃密な働きを再現した迫力の一刀。身幅広く重ね厚く、樋を掻いてもなお重く、輪反り大きく物打が張って大鋒に結んだ頑強な造り込み。現代の作と思えぬ存在感に満ち満ちている。小杢を交えた小板目鍛えの地鉄は、地底に潜んだ緻密な板目に地景が働いてうっすらと流れるような肌目が浮かび、地斑状に変化のある地沸と湯走りが働きあって幽玄美をも湛えている。湾れを基調に互の目を組み込んだ刃文は下半浅く次第に乱れの強くなる構成で、帽子は火炎状に強く掃き掛けて返る。深々とした沸に匂を調合した明るい焼刃は、ほつれと茫洋とした沸の広がりで刃境が明瞭でなく、オーロラのように広がって地中に溶け込む湯走り、焼刃に沿って走る鋭い沸筋、金筋、互の目の頭からも太陽の日差しを想わせる沸の触手を広げる。沸と匂で明るい刃中には層状に現れた肌目に沿って沸の流れが生じ、太い足を切って葉や飛足を形成し、帽子の火炎はこの働きの延長が際立つところ。
行平刀匠は、刀作りを祈りであると言う。実用ではない現代においてなお打ち上げることに迷い悩みながら求め続けてきた結果が、穏やかさと力強さを併せ持つ美しさであると(注)。