牡丹獅子韃靼人図目貫
無銘 蝦夷

室町時代
山銅地容彫金色絵
表 78mm 裏 77.8mm

牡丹獅子韃靼人図目貫 無銘 蝦夷

蝦夷拵と呼ばれる風変わりで味わい深い装いの拵がある。京や江戸で製作されながらも蝦夷地(北海道)に住む人々に好まれて交易の対象とされたことから、蝦夷好みと呼ばれた造り込みである。
 そもそも蝦夷とは、古代中国において、権力者の中華から遠く離れた異民族を指して、南蛮、北狄、東夷、西戎などと蔑視したことの延長に他ならず、我が国においても中華思想を踏襲して、中央権力の東方で活動していた狩猟民をこのように呼んだことに始まる。中央とは稲作を生活の基盤とする人々であり、これらが次第に東へと勢力を広げて国を形成するに及び、中には権力に従って定着する集団もあったが、狩猟生活を捨てずに東北へと逃れて行った人々が蝦夷(『古事記』では愛瀰詩と表記)である。
 自らが生きるための食物を自然から得、必要以上に採取して蓄えることも、さらに富とする意識も持たなかったのがこの蝦夷。自然の恵みを税として中央権力者に掠め取られる必要もなく、自然を相手に自然の生活をしていれば充分なのである。我が国の蝦夷についての記録には、文身があり屈強な身体能力という印象があるものの、争いを好まず気性が穏やかであるとしている。彼らは、武力で敗れたのではなく、自ら離れていったのであった。
 北上を続けてついに北海道に渡った蝦夷は、ここで別の文化と接することとなった。それが、樺太から千島列島にかけて居住し、海を生活の場としたオホーツク文化を基盤とする人々である。アムール川など大陸の大河が海に運び込んだ滋養は、南下する海流親潮となり、南からの黒潮とぶつかって豊かな漁場を形成しており、彼らはこの恩恵を受けていたのである。オホーツク文化はアムール川流域の靺鞨文化と共通していることから、人々の経路は樺太から大陸へと向かっており、我が国とは直接の交流がなかったと考えられている。即ち、北海道には南北双方から異なる文化が流入していたのである。
 北海道に移住した蝦夷は、オホーツク漁民の生活様式を取り入れたと考えられている。もちろん北海道の先史時代からの影響(続縄文期やその後の擦文期)も受けており、鎌倉時代末頃に独特の文化を創り出した。これが後にアイヌと呼ばれている民族。彼らが大陸の北路を通じ、或いは我が国とも交流して生み出した文化で最も分かり易いのは、唐草や蕨手を組み合わせた複雑な文様にあろう。また、特殊な趣のある拵を好む意識は、兜の鍬形を祭器とした習俗とも通じているのではないだろうか。
 アイヌが狩猟を主とする生活様式に変わることはなかったが、次第に首長による部族の統制が始まり、我が国との交易(古くは奥州藤原氏との交易があった)が増えると共に大陸との交流も盛んになった。熊や海獣の皮、鮭の干物、猛禽類の羽根などが彼らの生産した主たる交易品で、我が国からは漆器や刃物が求められた。しかもそれらは樺太や大陸との交易に使われ、大陸からは中国独特の織物やガラス製品を手に入れ、時に我が国へと伝えているのである。
 蝦夷にもオホーツク人にも製鉄文化がなかった。それ故鍛造刃物は貴重で、簡素な装備のマキリと呼ばれる実用具が良く知られている。一方、首長などは、権力の象徴たる腰刀を帯び、祭礼に用いていた。蝦夷拵はその一様式である。
蝦夷拵は、南北朝時代に我が国で流行した腰刀と呼ばれる短刀や小脇差を収めた拵に似ていることから、同時代以降、蝦夷地へ供給されたものと考えられている。金具の特徴は、山銅や素銅を極端に薄く打ち出して立体感のある唐草文などを高彫とし、処々に透かしを加えて主題を明確にし、表面に薄い金の色絵を施す古金工の技法。製作された当初は金の輝きがあって華やかであったと思われるが、使用の過程で色絵が剥げ落ち、あるいは酸化皮膜により表面に色斑が生じたものが多い。この表面状態は、言うなれば実用の証し。戦国時代以前の名もなき諸工の手になる、道具が辿ってきたそれと同様の状態に他ならない。
 さて、大振りに造られた写真の目貫は、蝦夷の特徴を余すところなく備え、しかも彫口が精密な逸品。北の交流地とも関連のあった狩猟民族として知られる韃靼人が主題。韃靼人は騎馬が巧みで、馬上から弓を放って獲物を仕留める超人的技能者であり、同様に狩猟を基盤とし、後にこれを産業とした蝦夷人のシンボルとも言えよう。さらに牡丹と獅子という伝統の図柄を組み合わせて韃靼人が獅子を引く様子に構成している。牡丹の意匠も古様式で、想像の植物である唐花を想わせる。
 打ち出し強く際端をわずかに絞って量感を持たせ、表に切り込んだ鏨の様子が鮮明に表れている裏行きも見どころ。透かしによる抜け穴の様子は切り口が鋭く、付着している時代の汚れも含めて数百年の時の積み重なりが魅力となっている。
 南蛮趣味に通じる異国趣味は、遠く手の届かない地への憧れが背景にある。蝦夷地に運ばれた拵が再び江戸人の前に現われたとき、数奇者は驚きの目で迎えることとなった。北国にこのような文化が存在したことを改めて知ったのである。
 

注①…『刀剣美術』四七九号福士繁雄「刀装・刀装具初学教室」参照。
注②…重要刀装具。銀座長州屋所蔵。
注③…『刀剣金工名作集』三七図が同趣の雲龍を彫り描いた作。
注④…重要刀装具。『金工三十七景』所載。銀座長州屋旧蔵。

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