短刀  銘 卍正次

Tanto: Signed. Manji MASATSUGU

東京 明治

刃長 七寸五分九厘
内反り僅少
元幅 七分六厘
重ね 一分四厘
彫刻 表 瑞雲に剣図片切彫 裏 若竹図鋤彫

金着一重ハバキ 白鞘入

昭和四十年京都府登録

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Tokyo capital
Meiji era (A.D. 1868-112)
He studied under Tairyu-sai Munetsugu (=Sokan's son)

Hacho (Edge length) : Approx. 23cm
Slightly curved inward
Moto-haba (Width at Ha-machi) : Approx. 2.3cm
Kasane (Thickness) : Approx. 0.42cm
Engraving:
 "Zui-un,ni Ken" (Cloud and sword) on the right face (Omote),
 "Waka-take" (Bamboo) on the back face (Ura)

Gold foil single Habaki
Wooden case (Shirasaya)

Hozon
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 卍正次(まんじ まさつぐ)は、慶応四年四月に、固山宗次門の田中青竜斎正久の次男として江戸新宿に生まれた。包丁製造業桜井安五郎の養子となり、十代前半から泰龍斎宗寛の子泰龍子寛次に就いて修業。明治二十八年岡倉天心の東京美術学校鍛金科設置に尽力し、東京赤坂離宮での正倉院宝物の整理と修理事業にも携わって正倉院宝刀を精査し、これらの古作を手本とした直刀(注①)を遺している。東京美術学校を辞した後は鎌倉瑞泉寺に移り、鍛刀技術保全に理解のある有栖川宮威仁親王の援助を得て作刀を継続したという。その生涯は鍛刀技法の現代への橋渡し的役割(注②)を担っていたともいえよう。
 この短刀は身幅重ね尋常で僅かに内反りが付き、鎌倉後期の短刀を想起させる端正な姿。地鉄は小杢目肌が詰み、地底に地景風の鉄が蠢いて動感があり、鉄色も明るい。刀身彫刻は龍の留守模様であろうか、瑞雲が巻き付く剣と裏の若竹図。殊に竹は勢いよく天を目指して伸び行く様子が簡潔明瞭に表現され、さらさらと音と立てて竹林を抜ける涼風すら感じせて見事。刃文は互の目に小互の目、尖りごころの刃を交えて微かに逆がかり、新雪の如き小沸が降り積もって刃縁明るく、足盛んに入り刃中も明るい。帽子はよく沸付き、横に展開して僅かに返る。錆浅く白銀色に輝く茎は細かな横鑢で丁寧に仕立てられ、卍紋と二字銘が鮮明。伝統技法に則りながらも正次の独創性が発揮され、格別の佳作となっている。

注①…倣正倉院寶剣卍正次謹作と銘した明治四十一年八月吉祥日紀の直刀がある(『銀座情報』二〇三号掲載)。
注②…昭和十四年立命館大学の日本刀鍛錬所で正次の子正幸と出会って指導を仰いだ一人が、当時、理工学部機械工学科の学生の隅谷正峯師(人間国宝)であったことはよく知られている。