阿弥陀鑢図鐔
無銘 平田彦三

 

江戸時代初期 肥後国
素銅地竪丸形毛彫 小田原覆輪
縦80mm 横77.4mm 切羽台厚さ4.4mm


 

阿弥陀鑢図鐔 無銘 平田彦三

 

阿弥陀鑢図鐔 無銘 平田彦三




 平田彦三は、近江佐々木氏の流れを汲む武士松本因幡守の嫡子。慶長はじめに父が没したため、まだ幼かった彦三は主細川三斎忠興より金工(金銀鑑定)の職に就くことを命じられた。細川家が豊前小倉藩を領していた頃のことである(注①)。
三斎は茶人利休の高弟七哲に数えられる一人。和歌や能楽、絵画、故実に通じた知識人であり、また創造力に秀でた芸術家であったことから、利休伝授の茶だけでなく、武家の視点からなる美意識を先鋭化させ、拵の創作を突き詰めた。後に細川家が領した肥後に移って以降も創造への熱は冷めることがなく、もちろん自らの剣術に適した操作性の追求も疎かにせず、完成したのが肥後拵と呼ばれる特徴顕著な拵群であった。
三斎は『茶屋秘書』に、若い大名に茶の指南をするという体裁で「自分自分の持所家職を忘れて隠遁塵外の者まねをし‐中略‐肝要の我武道に疎略ならん事是今の世の茶道の流弊也」…「氏郷も三斎も茶杓にて大名になりしにてはなく全く我家業をよくせし故」と、武道を専要にし、余日に閑静、幽雅を楽しむことが武士の茶道であり、武士の心がけがないのであれば「茶湯のミに身を委ね、大小をやめ茶坊主になるがよき」と書き遺している(注②)。利休に学んだ三斎は、茶の道の上では利休の茶をそのまま変えることなく自らのものとして後代に伝えたという。茶に通じる拵の創始は、武士の心がけであった。
その拵金具の製作を命じられたのが、平田彦三を筆頭とする、林又七、志水甚吾、西垣勘四郎などの肥後金工である。
肥後金工の中でも最も古くから活躍している平田彦三は、正阿弥派の流れを汲む彫金技術を身につけていた。山銅や真鍮などの素朴な素材を用い、轆轤鑢や翁鑢と呼ばれる同心円状の文様を刻しただけの鐔、本作のような日足鑢または阿弥陀鑢と呼ばれる放射状の線刻を施しただけの簡潔な意匠からなる鐔を製作している。
日足鑢や阿弥陀鑢とは、仏像の光背や日の出の際に滲む太陽の光のことで、時代の上がる甲冑師鐔などにも装飾としてみられ、実用鐔の伝統的な装飾の一つと考えられている。これらの過ぎることのない装飾は、使う者の手を経て、時と共にその表情を変えてゆく。
三斎が頑なというほどに強く踏襲した利休の侘茶の特徴は、主客が同じ空間を共有するという茶室、もてなしの心を突き詰めて到達する場の創造にある。視覚的には名物など虚飾の排除、実用の具物に漂う仄かな美観の発見とその感動がある。それが故に利休は、新物茶道具などでは、楽や信楽などにみられるような土の匂いの漂う鄙びた焼物を好んだ。
三斎が拵に取り入れた装飾こそ、この虚飾を排した質素な金具類。山銅地に波文を施し、山道と呼ばれる溝を切り込んだだけの頭、鉄錆地に枯れ木を思わせる文様を布目象嵌の手法(布目象嵌は手摺れによって剥落することがあり、その実用上の変質も美観となる)で施したり、本作のような素銅地のみからなる作がある。また、肥後拵の特徴の一つに、一作金具を用いず、異なる図柄や異なる作者の金具の採り合わせながら総体が醸し出す風合いを愉しむ意識がある。これらを、戦場で尊ばれた鮫皮包の鞘や石目地仕立ての鞘に装着し、柄は皺皮や燻革で固く巻き締めて居合抜きや実戦の場でも後れをとらぬ、身体の一部となり得る造り込みの要としている。
この鐔は、彦三が最も得意とした素銅地を手捻りの焼物のごとく処理した作。中高に造り込まれた地面は鍛えた鎚の痕跡が明瞭に残り、焼手腐らかしを施したものであろう微妙な凹凸が生じ、さらに時を重ねて色合いも黒味を帯びて一際質素。切り込まれた阿弥陀鑢の線は強弱変化があり、これも時を経て黒味が濃く、実用による手摺れも加わって江戸初期の武士の気象が伝わりくる。櫃穴を左右に大きく透かす処理も肥後鐔の特徴で、小柄や馬針を通す部分であるため抜き差しに障りのないよう余裕が感じられ、これも単なる装飾ではない、実用に即した工夫であることが想像される。
切羽台に施された丸い寄せ鏨は、ここにわずかの空隙を設けることにより緩衝の効果が持たされたものであろう。
耳には可動式の真鍮素材からなる特殊な覆輪が廻らされている。表面に提灯のような細かな段と突起が設けられていることから、小田原提灯に擬えて小田原覆輪と呼び、これも彦三にみられる特徴とされている。専ら鐔本体の地金とは色合いを違えた素材を用いるを常としており、覆輪の素朴な風情も魅力の一つとなっている。
いかなる拵に装着されていたものであろう。現代の鑑賞者の意識は三斎が求めた美観に到達できるのであろうか。今に遺されているこの彦三の鐔はあまりにも簡潔であり、我々の感性が試されているように思える。

 

注①…生年不詳、寛永十二年十一月九日没。慶長はじめ頃にまだ幼年であったことを考えると、没年は四十五歳前後であったことが解る。
注②…川口恭子『細川三斎の茶書について』(熊本大学学術リポジトリ)参照。



阿弥陀鑢図鐔 無銘 平田彦三


   

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