昭和五十年静岡県登録
特別保存刀剣鑑定書
和泉守國貞は天正十八年に日向国飫肥に生まれた。上京して同郷の堀川國廣門を叩き、名手越後守國儔の指導で技を修め、師の没後は兄弟弟子として切磋琢磨した國助初代と共に、幕府によって整備されつつあった新都大坂へ進出。飫肥藩主伊東侯に仕え、元和九年に和泉守を受領している。大坂新刀隆盛の礎を築いた一人である。
この脇差は、元和から寛永初年に盛行した姿(注①)。即ち寸法を控えながらも頗る広い身幅とし、鎬地の肉を削ぎ落して鎬筋を強く張らせ、元先の幅差が殆どなく中鋒が延びた、大刀を縮めたような独特の体配。良く詰んだ小板目肌に流れごころの肌を交え、細かな地景で所々肌起つ地鉄は、小粒の地沸が均一に付いて鉄色明るく、大坂新刀独特の澄明感がある。短い焼出しから始まる浅い湾れに互の目、丁子、尖りごころの刃を交えた刃文は、物打付近が一段と焼高く鎬筋に及んで截断の威力が集中。刃縁には新雪のような小沸が厚く降り積もって輝き強く、太い沸足を遮るように細かな金線、砂流しが断続的に掛かり、匂を伴う細かな沸の粒子で刃中の照度も高い。帽子は焼深く沸付き、表は小丸、裏は浅く乱れ込んで突き上げごころに小丸に返る。茎には受領銘が太鑚で力強く刻されて鑚枕が立ち、「和」の最終画が右から左へ刻されるなど常とは異なり、受領直後の時期の切銘(注②)のあり様を伝えて貴重。緻密な鍛えと刃沸の明るさに大成期の片鱗を覗かせた、親國貞若き日の優品である。