永禄年間、備中のほぼ全域を掌握した三村家親は隣国備前の有力武将浦上宗景や宇喜多直家らと熾烈な戦いを展開し、山陽道の戦国史に深くその名を刻した。家親は刀を愛し、領内に若狭冬廣や伯州廣賀等の優工を招く一方、十郎左衛門尉春光に惚れ込んで弘治三年には二振の短刀を注文(注@)した。春光は右京亮勝光−次郎左衛門尉勝光−次郎兵衛尉治光−春光と続く備前正系の刀工で、天文から天正にかけて槌を振るい、武将好みの雄刀(注A)を手掛けている。
この短刀は身幅広く重ね厚く、太く深い護摩箸と腰樋を刻して引き締まった姿。地鉄は下半が密に詰んだ板目肌、物打付近は杢を交えた板目に太い地景が働いて肌起ち、小粒の地沸が付き、淡く湯走り掛かって固く締まる。刃文は互の目に丁子、片落ち風の刃、浅い湾れを交えて複雑に乱れ、匂勝ちに小沸付いて刃縁明るく小足入る。帽子は焼深く、激しく乱れ込み鋭く突き上げて長く返り、棟を焼く。茎の保存状態は良好で俗名はな
い(注B)が銘字の特色から十郎左衛門尉の作であり、しかも鑚の一画一画の付け止めは極めて丁寧。高位の武将の需で精鍛された作であろう。仕上がりは上々。年紀は三村家親の子元親が本拠備中高松城を奪回し、宿敵宇喜多氏とその同盟者毛利氏を睨んで勝鬨を挙げた元亀二年。武将の栄枯盛衰を見届けたものであろう、覇気漲る戦国の一振である。
注@…横田孝雄『所持銘のある末古刀』に詳しい。
注A…東郷平八郎元帥遺愛と伝える天文十六年八月吉日紀の刀があり、時代を超えて武士の支持を得ていたことが知られる。
注B…天文二年八月日紀の刀には俗名はないが、出来優れた入念作である(第三十七回重要刀剣) |