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銘 石堂藤原是一作之
万延元年八月日

Katana
signature Ishido Fujiwara no Korekazu kore wo tsukuru
Man'en gannen 8 gatsubi

武蔵国 万延元年 四十一歳作 百五十八年前
Musashi province / Man'en 1 (1860A.D. late Edo period), 158 years ago

刃長 二尺七寸六分強 Ha-cho (Edge length); 83.7cm
反り 四分五厘 Sori (Curveture); approx.1.37cm
元幅 一寸 Moto-haba (width at Ha-machi); approx.3.03cm
先幅 五分七厘 Saki-haba (width at Kissaki); approx.1.73cm
棟重ね 二分三厘 / 鎬重ね 二分五厘 Kasane (thickness); approx.0.76cm
金着二重ハバキ 白鞘入 Gold foil double Habaki, Shirasaya

鞘書「参議井上馨所持…」
Calligraphy on the scabbard "Sangi Inoue Kaoru shoji..."

昭和二十六年山梨県登録

特別保存刀剣 Tokubetsu-hozon

 毛利敬親の側近くに仕えた井上馨は、安政二年に参勤で江戸に下り、蘭学、洋式砲術、英国海軍を研究し、英国船購入を担当したが、その心中は攘夷の炎が盛んで、文久二年十一月には高杉晋作、伊藤俊輔らと品川御殿山の英国公使館焼打に参加している。一方、柔軟な頭脳の持ち主でもあり、佐久間象山の武備拡充論、海軍興隆論、人材海外派遣論に触れると攘夷の実効性に疑問を抱き、密かに進行していた藩の海外留学生派遣計画に桂小五郎の仲介で参加し、文久三年五月十日に横浜から渡英した(注@)。世界最先端の科学技術に触れ、攘夷の限界と武備拡張の必要性を確信。折しも祖国では長州が攘夷を決行。列強の報復戦争準備がロンドン・タイムス紙で報じられると、井上は伊藤と共に急遽帰国し、英語を駆使して戦争回避に努め、戦後の和議成立に全力を注いだ。その行動が攘夷派の藩士たちに裏切りと捉えられ、長州征伐での幕府への対応会議の帰途に刺客に襲われて重傷を負った(注A)。回復後は討幕に貢献、維新後、伊藤博文と新国家建設に邁進している。井上馨の根幹には強い愛国心が備わっていたのである。
 表題の刀は石堂運壽是一(注B)の万延元年の作で、藩主の小姓となり聞多(もんた)の名を賜った井上馨が江戸で帯びていた、身幅広く重ね厚く、長寸で中鋒の、幕末の志士好みの精悍な造り込み。無類に錬れて詰んだ小板目肌の地鉄は小粒の地沸が均一に付き、地肌は青く冴える。打ち合いを考慮したものであろう、焼の低い刃文は二つ三つと連れた互の目に尖りごころの刃、肩落ち風の刃を交え、匂勝ちに小沸が付いて処々の焼頭が匂で尖り、刃中は匂で冷たく澄む。帽子は焼を充分に残して良く沸付き、乱れ込んで小丸に返る。戦国最大の業物作者孫六兼元の三本杉を想起させる意欲的な刃文構成。長めに仕立てられた茎は保存優れ、銘字が謹直に刻されて鑚枕が立つ。攘夷の志を胸に秘めた井上馨の若き日を伝える雄刀である。

注@…伊藤俊輔、山尾庸三、野村弥吉、遠藤謹助を加えた五人。
注A…全身を切られ、五十針縫う大手術の末、助かった。見舞いに来た伊藤に、二人の内どちらかは生きねばならないと苦しい息で語ったという(吉村昭著『生麦事件』)。
注B…長運斎綱俊の甥。幕府御用を勤めた石堂是一の七代目を襲う。

刀 銘 石堂藤原是一作之 万延元年八月日刀 銘 石堂藤原是一作之 万延元年八月日刀 銘 石堂藤原是一作之 万延元年八月日 白鞘

刀 銘 石堂藤原是一作之 万延元年八月日 切先表刀 銘 石堂藤原是一作之 万延元年八月日 中央表

刀 銘 石堂藤原是一作之 万延元年八月日 中央表刀 銘 石堂藤原是一作之 万延元年八月日 ハバキ上表




刀 銘 石堂藤原是一作之 万延元年八月日 切先裏刀 銘 石堂藤原是一作之 万延元年八月日 中央裏

刀 銘 石堂藤原是一作之 万延元年八月日 中央差裏刀 銘 石堂藤原是一作之 万延元年八月日 ハバキ上差裏

刀 銘 石堂藤原是一作之 万延元年八月日 ハバキ




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