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脇差 生ぶ茎無銘(新刀関


Wakizashi
no sign
(Ubu-nakago) Shintoh Seki

ご成約を賜りました
Sold out


― 泰平の世に未だ漂う戦国の残り香

脇差 生ぶ茎無銘(新刀関)
脇差 生ぶ茎無銘(新刀関)

美濃国 万治頃 約三百五十年前 Mino province / Manji era (early Edo period), about 350 years ago
刃長 一尺四寸一分六厘 (Edge length; 42.9cm)  / 反り 二分弱 (Curveture; 0.6cm)
元幅 九分五厘(Width at Ha-machi; 2.9cm) / 先幅 六分九厘(Width at Kissaki; 2.1cm)
棟重ね 一分九厘 / 鎬重ね 二分五厘(Thickness; 0.8cm)
金着一重ハバキ 白鞘入 Gold foil single Habaki, Shirasaya
平成3年東京都登録


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《「斬る」性能を追求した姿》
平地の肉を削ぎ、鎬を高く立たせた刀身に、掌にすっぽりと収まる手持ちの良い短い茎の片手打ちの体配は、斬撃性能と操作性を極限まで突き詰めた姿と言える。手にしたときに感じるずしりとした手応えは、頼もしい。


《躍動し変化横溢な地鉄の働き》
板目に杢目を交えた地鉄は、地沸付き地景縦横に走り、ほのかに淡い映りの立つ地中の働きは、まさに関の典型


《孫六兼元を想起させる刃文》
砂流し盛んに掛かりながら高低に変化する三本杉風の互の目乱れの刃文は、どことなく兼元を想わせ、作者の意識的な創意が明確に感じ取れる。


脇差 生ぶ茎無銘(新刀関) 差表 鋒
脇差 生ぶ茎無銘(新刀関) 差表中央
脇差 生ぶ茎無銘(新刀関) 差表 区上

脇差 生ぶ茎無銘(新刀関) 差裏 鋒
脇差 生ぶ茎無銘(新刀関) 差裏中央
脇差 生ぶ茎無銘(新刀関) 差裏 区上

小沸の付いた匂口締まりごころの刃文は互の目に乱れ、耳形の刃や尖りごころの刃を交え、金線・砂流ししきりに掛かる。帽子はやや掃き掛けながら、尖りごころに返る。

  《武断から文治へ―。変わりゆく時代の「間(はざま)」の刀》
慶長20年(西暦1615年)、徳川家は大坂夏の陣で羽柴家を攻め滅ぼし、これより応仁の乱から続く戦国の世に終止符を打った。世に言う‟元和偃武”(げんなえんぶ)であり、以後およそ250年にわたる徳川家の泰平の治世が敷かれることとなる。
 とは言え、元和以降も、寛永14年(西暦1637年)の島原の乱、慶安4年(西暦1651年)の由井正雪の乱など、内乱や一揆が全く絶えたわけではなかった。幕藩体制が盤石さを増してゆく一方で、そうした内乱で、消えゆく戦国気風の最後の残り香を纏い、戦いに身を投じた、そんな世代がまだ少なからず存在した。その最後の時代が、この脇差の作られたであろう万治~寛文という時代である。こうした武断から文治に移り変わるいわば‟間(はざま)”の時代をこの脇差は色濃く反映している。




  茎は無銘ながら生ぶ茎。鑢目は伝統的な関の檜垣鑢となっている。
美濃国関において、年代を明らかにした作品を残したのは鎌倉末期の志津三郎兼氏からである。その後、関は南北朝時代から室町期にかけて刀鍛冶一大拠点として隆盛を極めた。室町末期になると関鍛冶の一部は越前や尾張を始め他国に移住し、各地にその作風を伝えた。新刀期に入っても関の地には善定派や三阿弥派、徳永派などいわゆる「関七流」の末が多数存在し、本作を手掛けたのもそういった鍛冶の一人であろう。


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