巻其ノ参・渡辺綱
《第二場・奪われた腕を取り戻しに、母に化けて鬼来る。一条戻橋の怪異の後日譚》
深夜、武家の門を叩く老女。固く閉ざされた門の内側の五人の武士たちが薙刀を手に臨戦態勢をとっており、門外の気配に神経を高ぶらせている。奥には注連縄を張り巡らせた中に、この家の主で、源頼光の家人で、あの酒呑童子を倒した渡辺綱が、太刀の鞘口に手を当て、いつでも抜き放てるように備えている。
しかしこの老女、ただものではない。杖をもった左手は見えない。それもそのはず、二の腕から先がないのである。老女の正体は鬼。綱が一条戻橋に差しかかると、家まで送ってたもれと美女が頼んだ。これを馬に乗せたところ、たちまち鬼に変化。綱に襲い掛かった。すんでのところで綱は太刀を抜き放ち、鬼の左腕を切り落とした。
場面は渡辺綱邸に鬼が腕を取り戻しに来たところである。鬼の姿では怪しまれる故、綱の伯母の姿を借りている。伯母ではあるが、実は乳母として綱に乳を含ませて綱を育てた人で、実の母同然である。『屋代本平家物語』剣巻(注)にある綱と鬼のやり取りは次のようなものであった。
老母(鬼)「綱よ、遠路お前を訪ねてきた母じゃ。お前の顔を見たいから、門を開けておくれ」
綱「私とて、お会いしたいのですが、母上、実は私、陰陽師の阿部清明殿の勧めで、七日の忌に服しております。それゆえ、母上を館に入れることはできないのです」
普段ならここで引き下がるのだが、さすがに鬼も必死である。綱の弱みを突いてきた。わざわざ訪ねて来た母の私を、館には入れないというのでは、もはや育てた甲斐がない、親でもなければ子でもない、と泣いたのである。
親不孝者と言われては、さすがの綱も開門しないわけにはいかなかった。その上、母は鬼の腕を見たいという。
「今はだめです。七日後ならばお見せできます」
腕は清明が封じ込めている最中であった。しかし「私はもう歳だから、今度はないかもしれない。今見たい」と懇願した。
「親不孝」の文字が再び綱の脳裏に浮かび、ついに腕を見せてしまった。
この瞬間を待っていた、とばかりに老母は鬼の姿に変化し、「腕を返してもらうぞ」と飛び去ってしまった。
よく知られた武勇伝を描いた小柄。建物の門戸、屋根には施された厚手の金が赤銅地に美しく映え、警戒する武士の息遣いと、鬼の執念が交錯する闇夜を感じさせて見事である。
注:『日本架空伝承人物事典』(平凡社)