巻其ノ四・平知盛(錨知盛)

《見るべき程のものは見つ―
   名セリフと共に海中へ沈んだ平家最期の英傑の死にざま

 平知盛は仁平二(1152)年清盛の四男として生まれる。以仁王を擁して挙兵した源三位頼政を討つなどの武勇で知られた。栄耀栄華を極めた平家一門の人らしく、知盛も従二位に進み、中納言兼左兵衛督征夷大将軍を任官した。
しかし時代は変り、各地に源氏が挙兵。木曾義仲が京に迫ると一門は安徳天皇と共に西国に逃れた。この時、坂東武者の畠山重能や小山田有重らが大番役で上洛しており、平家では彼らを関東へは帰さず、ここで斬ろうとの意見もあった。が、知盛は意義を唱え、

「もはや我らの家の運も尽きてしまっている。たとえ何百何千人を斬っても詮なきこと。ただ彼らの妻子が悲しむだけ。本国へ送還するのがよかろうと存じます。それに万一再び運が巡って、都に返り咲いた暁には感謝もされましょうぞ」

と理にかなった意見を述べている。無駄な殺生は意味がない。後に壇ノ浦で、やみくもに敵兵に挑む能登守教経に「どうせなら敵の大将と組み打ってはどうか。」と勧めているのも同じ考えからであろう。

知盛はこれから先、一門の行く末は決してよくはならず、再び都に帰還する事はないと悲壮な覚悟を決めていた。案の定、平家は追い詰められていった。そしてついに壇ノ浦の戦いを迎える。『平家物語』の描く知盛はこの時、潔くも豪胆な行動をとっている。もはやこれまでと判断した知盛は安徳天皇や徳子、二位尼らの船に立ち戻り、

「見苦しい物はすべて海に捨てよ。」

 と、言いながら掃除を始めた。知盛には「安徳天皇の乗った舟は荒れ放題だった」と後々の誹りとなってしまうとの思いがあったのである。が、そんな彼の思いを察することすら出来ない女官たちは
「中納言様、いったい何を!それよりも源氏との戦はどうなったのですか。」
と問うばかり。これに対し知盛は
「あ、そうそう、もう間もなくすると、東夷たちが乗り込んでまいりますぞ。」
と笑って答え、安徳天皇の入水を見届けるや、鎧二領を錘とし、生きるも死するも諸共と誓い合った乳兄弟伊賀家長(これも鎧二領を着している)と手に手を取り、

「見るべき程の事は見つ、いまは自害せん。」

との有名な言葉を残して海中に深く沈んだのだった。享年三十四歳。平知盛の一世一代の晴れ姿は涙なくして語れない。『平家物語』の筆者が理想とした生き方もここにあるのだろう。

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と、ここまでが史実として語られる平知盛である。そんな知盛の卓抜なる人柄を思慕する故であろう、後代の人々は平家への愛情と源氏への憎しみが相まって亡霊として存続したと考え、兄との確執の末、都を追われ船で西国に逃れる義経主従の前に、亡霊知盛が立ちはだかるという新たな物語を作り出している。『義経千本桜』の渡海屋銀平、実は新中納言知盛がそれ。この物語は知盛が亡霊になってなお安徳天皇を護っている事になっている。そして戦いを挑むも破れた知盛に
「安徳帝のことは私がお守りいたそう。」
と約束。これに対し知盛は

「きのうの怨はけふの見方。あら心安や嬉やな。」

等と泣ける台詞を残し、碇を身に纏って海の底へ旅立っていく…。



 

鐔 藻柄子宗典と銘あり 錨知盛図
鉄地竪丸形肉彫地透色絵象嵌