巻其ノ弐・新田四郎忠常

英傑仁田四郎忠常、富士の洞中で怪異に遭う
  忠常は治承四年、頼朝が伊豆に挙兵した時からの古参の御家人。平家追討の軍に加わって西海に赴き、勇猛果敢な戦いぶりで知られた。そして平家が壇ノ浦に沈んだ後、頼朝が建久元年に上洛を果たした際にも、随兵としてその名を連ね、また建久四年三月二十一日、頼朝が下野国那須野、信濃国三原の狩場を訪れた時の伴の者二十二人の中にもその名がみられる。建久四年五月二十八日富士の巻狩の際も頼朝の側近くにあり、曽我十郎を討ち取っている。
  さて、この富士人穴探検のことは鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』建仁三年六月三日条にある。二代将軍頼家が富士山麓の狩場にお出ましになったところ、人穴と呼ばれる大きな穴が発見された。頼家は忠常に命じて、これを探検させることとした。忠常は家臣六人を連れ、頼家から賜った重宝の御剣を身に着け、意を決して洞窟へ入った。
  忠常が戻ったのは何と翌日であった。洞窟内は想像以上に狭く、歩くことすら困難で、大きな地下水の流れがあり、そして顔前に飛来する蝙蝠が一行の行く手を阻んだ。進退に窮した忠常はふとした霊感から剣を川中に投げ入れたところ、ようやく道がひらけ、命からがら帰還したのだった。地元の古老は「この洞窟は浅間大菩薩のご在所であったが、長らく見ることがなかった。それが今になってこうして現れたのは全く恐るべきことじゃ」と語った




鐔 無銘(若芝) 富士人穴図
鉄地竪丸形鋤下彫金銀布目象嵌色絵